【ヒトダカリとサンダル〜猛暑の下で〜】

【ヒトダカリとサンダル〜猛暑の下で〜】

あれはもう、30年程前の、今年の様な暑い夏の、横浜。

西口からの通りを越えたビブレ前まえの大きなドブ川。買い物を終えた僕ら4人は、普段には見慣れない、そのドブ川に集まった人集りに、引き寄せられ、除きこんだ。

みんな何を見ているのだろう。既に川沿いと、それを挟む様に300メートルほどの間隔で架けられた2本の橋の周りには、溢れるばかりの人達。僕らは人を掻き分け、何があるのかを探す。

川には、サンダルが1つ浮かんで、ほとんど止まっている様に揺れている。それだけか。

いや、頭が1つ浮かんでいる。

人?なんだ?

なんだこの違和感。

高校生の時の、あの時の違和感を今も思い出す。そしてそれは恐怖に変わる。一瞬時間が止まった様に感じた、その時の話。

そこには、男が1人、水から頭を出していた。

我々4人は誰とも無く、周りの人に、何があったのか聞く。周りの人もなんと無く、サンダルをとりに飛び込んだ男がいるらしい。とか、もう15分もああやって浮かんでるとか、頭のおかしい男なのではないかとか、そんな風に噂立つ。暑いから泳いでいるんじゃないかという声も。

観覧客となった人集りは、次に何か起きるか固唾を飲んで、その浮かんだ頭と流れるサンダルを見つめている。

なんだこの違和感。。

時間が止まったような違和感に、はっと気を取り戻して、僕は3人に叫んだ!「助けないと!!、死ぬぞ!」

【とまれ】

その言葉に、3人もまるで何かの幻術から解けたかの様に動き出す。川には、降りて行くハシゴは見つからない。降りるハシゴがないという事は、飛び込んだら登れないという事。

冷静に考えたら当たり前の事だ。男は静かに溺れていた。

見守る観衆に照りつける日差しはジリジリと、額に不快な汗を染み出させる中、男1人だけ気持ちよく、川遊びを楽しんでいる筈はない。

水は深く真緑に濁っている。とても人が泳ぐ環境では無い。なぜ男がこの川に引き摺り込まれたのか。

今は問題では無い。

1番の問題は、男が1人深い川で溺れている事。そしてもう1つの大きな問題は、それを見ている群衆が誰1人助けようとも、また助けを呼ぼうともせずに、まるで誰かに幻術でもかけられたかの様に、目の前で起きている平凡な「ショー」を誰かの邪魔をしない様に見守っている事だ。

違和感はこれだ。何故、誰も助けないのか。

しかし、それも今は問題では無い。とにかく助ける。

汗だくの、高校の半袖のワイシャツと、紺のパンツ姿の4人の学生が、沿道と川を隔てる腰ほどのフェンスを飛び越える。

まるで、役者が舞台に上がったときのように群衆は歓声を上げる。

友達の1人が、それに釣られて片腕を高々と上げると、歓声は更に熱を増す。

僕は、それを無視して、男に叫ぶ!

「大丈夫か!おおい!」

さっきまで、頭を水面から出していた男は、たまに深く沈み、ぶくぶくと泡を浮かべながら、また水面に顔を出す。

「溺れて死ぬ人は、静かに沈んでいく。」

水難事故のニュースで、そんな表現をしていた。

男は既に大量の水を飲み、既に体力も殆ど消耗して、声もあげられないし、手もあげられない。

僕は急いで何かを探す。

何か浮き輪の様なもの、何かロープの様なもの、なんでも良い、何か男に届くものを。

何か、何か、何か、何かないか!?

何か、、、、

また男が沈み込む。

あった!おい!手伝え!重いぞ!!

奇跡なのか、不運なのか、そこにあったのは、何故かそこに落ちていたのは、道路標識の付いた折られた、鉄の塊。

本来、道路の脇に立ち、交通の案内をする、あの3メートルほどのポールだ。その先には、当然丸い標識が付いている。何故か折られて、川辺に捨ててある。

選択肢も、考えている時間もない。

おい、これで行くぞ!重いぞ!がんばれ!

高校男子4人は汗だくの手で、そのポールを掴み上げ、ギリギリ届くか届かないか、の水面に下ろす。

裏になっていた道路標識がその時に、表を向く。その標識は「とまれ」と記されていた。

【必死】 

僕達は必死に男に声をかける。

「おい!こっにに来い!」「捕まれ!」

川幅は50メートルはあるだろうか。そして男はその真ん中あたりにいる。男は顔をこちらに向けて頭を水面に浮かべているが、ほとんど反応しない。

そしてまた、沈んで、また浮き上がる。

男は静かに限界を迎えていた。

それでも僕らは、飛び込んで助ける勇気は無い。

一応、海育ちの僕らは、溺れている人を助ける時の難しさを、それとなく聞いている。

そしてその経験が無い。

この川を見渡す限り、どこにも登るハシゴが無いのだ。つまり命綱は無いのだ。

どうする。。。結局だめか、、、間に合わないか、、、

僕らは必死で男に声をかける、こっちに来い!

突然、男が最後の力を振り絞って、水飛沫をあげて腕を動かした!少しずつだが、こっちに向かってくる。

「がんばれ!こい!がんばれ!」

道路標識のポールは、おそらく鉄製で30kgはあるだろうか。若い男4人とは言え、それを水面にまで下ろすと、掴める部分はほとんど無い。

柔道部だった僕ともう1人がポールを掴み、残り2人は僕らが川に引き摺り込まれない様に、腰を抱え込む。

男はたまに沈み込み、また浮かびながら、必死でこちらに向かってくる。

「よし!捕まれ!」

男は必死で「とまれ」の看板に捕まる。

良かった。なんとかなるか。

と思ったら瞬間、僕らは一気に引っ張られる。

男がそのポールを伝って登ってこようとしているのだ。

まずい、持っていかれる。重い。

なんとか引き上げてやりたいが、とても上がる重さでは無い。延べおよそ100kg。それをなんとかギリギリ20cmくらいだけの、ポールの先端を必死で掴んで繋ぎ止めている。

「まて!登るな、まて!捕まるだけで、登るな!」

男にその声は届かない。初めから聞こえないのか、必死で耳に入らないのか、わからない。男は必死で道路標識によじ登ろうとしては、ずぶ濡れの重い体と、疲れはてた筋力のせいで、落っこちては、沈んでいく。

また浮かんで先端の標識を掴む。

僕らは、そのポールを離さぬように死ぬ気で掴む。後ろの2人も、そんな僕らを必死で抱える。

お互いにもう時間の問題だ、男がなんとか落ち着いて、少しでも、ただ捕まって浮かんでいるだけの状態になってくれないと、こちらも握力が持たない。

もし、ポールを落としたら、そのまま男も沈むだろう。男にとっても最後のギリギリ残された希望。これを離すわけには、いかないんだ!絶対に!

でも、どうする、男が落ち着いて捕まっても、引き上げられない。男はもう限界を超えているはず。心も体も。。。

男は、もう登ってこない、、、

落ち着いたのではない、

もう、、力がないのだ、、、

希望も、、、、

僕らももう、ポールを支えきれない、、、

流れる汗、、、、手が滑るよ、、、

がんばれ、、、

がんばれ、、、

がんばれ、、、

俺も頑張るから、、、

お前も頑張れ、、、、

、、、、、、、

、、、、、、、

「助かりました!我々が代わります!」

そんな声が聞こえた気がした。

手袋をした力強い手が、僕らに変わってそのバトンを引き継いで強く掴んだ。

【回想】

僕らが必死で、夏の太陽の下にいた時、群衆の誰かが我にかえり、呼んでくれた消防隊によって、男は助けられた。

消防隊は、手際よく、川にハシゴを降ろして、降りていき、男を救援の紐で縛って引き上げた。男はそのままタンカに乗せられて、救急車に詰め込まれた。

男はもう、こちらを見る余裕も無かったように見えた。

男の横顔はつらそうだった。

人を助けるにはあまりに不細工で重すぎる「とまれ」の看板は、男の命を繋ぎ「とめ」また同じように川辺の隅に置かれた。

片方のサンダルは随分と向こうへ流れていった。その先を見ても、この川に降りるハシゴは見つけられなかった。

群衆はつまらない「ショー」でも見たかの様に散り散りに、消えていった。

何事もない、ただ、ただ、暑くて仕方のない昼下がりが戻る。帷(とばり)が晴れる。深緑の川は、ほとんど流れていない様に少しずつ動いていた。

「はじめに動いてくれたのは君だね?」と、警察に引き止められて、念の為と住所を書かされて、僕らも解散した。

後に横浜の警察署から、500円のテレホンカードが家のポストに届いた。

深緑の川の真ん中で、川沿いの沿道や橋の上から、 助けに来ない1004人の群衆に見下ろされ、絶望の中、静かに川底に沈みかけていた男の目に、見上げて映った景色は。

横浜の空に打ち上げられた、夏の花火の写真が印刷された、500円のテレホンカードに変わった。

僕はそれを大切にしまった。

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