【遠くで聞こえた気がする。】

【遠くで聞こえた気がする。】

「あの人は、今もどこかで、、、、、

、、、、そんな声が『遠くで聞こえた気がする。』」

ついつい使いがちな、それっぽい哀愁漂うワード。『〜聞こえた気がする。』

「いや、それは、本当は私がそう思いたいだけなのかも知れない。偽りの記憶だとわかりながら、自分を偽る。

偽っても虚しくなるだけだろう。

と、また『遠くで聞こえた気がする。』」

初めに小説でこの言葉を発明した人は凄い。でも私が使うと、とてもチープだ。

それっぽく聞こえる風に語る。

近くで聞こえた気がするならまだいい。

「鎌倉の木々の生い茂る裏道を散策していたら、近くでなにか、枝の折れる様な音が聞こえた。目を凝らすと、そこには外来種ではあるものの、鎌倉の小さなアイドル、シマリスがドングリの実を取ろうとしていた。」

しかしこれが、聞こえた気がする、、しかも遠くで、、となればほぼ聞こえてないのと同義だ(笑)

と、自分にツッコミを入れながらブログを書いている時がある。

世の中にはそんな、それっぽい言葉達がある。

【それはまるで、たあかも。】

内容があまり無い、そんなブログに今回は、または、今回も?なりそうな気がする。

「1つの言葉を模索する運動。そう、『それはまるで、あたかも』、虚空に手を伸ばして何も掴めていないのに、掴めていないそれを小宇宙だとでもいう様な。」

多くの作品はオリジナルの様に思われるが、所詮は歴史の中の数多の作品の模倣でしか無いと。そんな風に先生が言っていた気がする。

多くの職人技も伝統の引き継ぎなので、必ずしも模倣は悪ではなく、むしろ正義だ。ただ、表面的な所だけの学びで、『それはまるで、あたかも』特別な何かを習得した、もしくはそんな才能があるかの如く振る舞う姿は尊敬からはほど遠い。

しかし、私の様にただ書き殴るだけの責任の無いブログ書きにとっては、そういう事はまだ余り深く考える力も無く、ただプラクティスとして書き続ける。

「そう、『それはまるで、あたかも』、言葉を覚えたばかりの子供が、嬉しくなって、その言葉の意味も分からずに模倣し、繰り返し発音する様に。」

いい大人がそれをやって、世間から嘲笑されないとは、言い切れないけれども。

【それから、また、時は経ち】

「本が好きだった少年は、やがて世界には自分の1000倍本を読んで、もっと本が好きな人がいる事を知る。そして、その中のごく僅かな人が、綴る事を生業としているのだと悟る。

『それから、また、時は経ち』

少年は大人になり、自分もまた、自分の得意だと思える生業に出会い、その傍で今もたまにブログを綴っている。」

私は、子供の頃から、何となく思った事をノートに取るのは好きだった。でも、それはただそれだけ。

「本当にそれだけなのか?」

と、『遠くで聞こえた気がする。』

『それはまるで、あたかも』

少し体の大きくなったヤドカリが、新しい宿としての次の貝殻を見つける。そこに身を移そうかと意を決した時に、俯瞰の自分が問いかけてくる様に。

「もとの宿を捨てるのか?」と。

『それから、また、時は経ち』

ノートはスマホに変わり、こうやってまた今仕事に向かうバスの中で綴っている。まるで自分が、映画「スタンドバイミー」の主役のゴーディーが大人になり、クリス・チェンバースに言われた様に小説家として、俯瞰の目で、その少年時代を語り綴るあの語り手にでもなったかの様に。

きっと誰でも、そうなのでは無いだろうか。

《あとがき》

最近AIが書く文章に触れる事が増えて、ああ本当にそれっぽいなと驚く。

一度私もAIに書かせてみた事がある。書こうとしたブログのテーマを、私の過去のブログを読み込ませた上で、先にAIに書かせてみた。なんともそれっぽい、私が書きそうな表現が数秒で書き上げられる。

人もAIも結局は模倣だ。

しかしAIの方がより早く、より膨大な情報を得て模倣してくれる。

それでも、私がこうやって今もたまに書いているのは、私がただ書く事が好きだからなのだろう。AIが多くのヒントを誰よりも的確に与えてくれる時代は本当に目の前に来ている。

AIの書く文章は、すごく優秀なんだけれども、それでもまだ、人の書く文章の方がなんか良いんだよなと、思える時代がもう少しだけ続く事を願う。

2025.3.10.

角井正朋(つのいまさとも)

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