【立ち話】
【立ち話】
雨の日に自転車で、向こうから来るカッパを着た男性の横顔がチラッと目に入る。気に留めずにバス停を目指す。
ふと見た顔だった事に気づいて振り返ると、その男性はこちらをまだ、傘の無い鬱陶しい雨を、無数に顔に受けながらこちらを見ていた。
誰だっけ?
でも知ってる顔?
と思って会釈する。
向こうも納得したように、頷く。
今回のブログはこんなふとした出来事が切っ掛けで書く事になった。
もう閉店してしまったお蕎麦屋さんの出前のバイクのおじさんも、なんとなくの顔見知りで、通りすがりに目が合うとあちらから会釈してくれた。
その姿を見て毎度、町の商売人だなぁ。と思ったものだ。
地元の横須賀の片田舎の小さな商店街で商売をする父も、よく小学生だった私を連れて近所に買い物に行くと、行く先々で、会釈をし、「立ち話」をしていた。
暑いだの、寒いだの、近所の誰かが入院しただの、、、
私は、どこの誰かはなんとなく分かる、その近所の人に挨拶だけはするものの、「立ち話」には参加せず、静かに終わるのを待っていた。
たまにその立ち話が終わるのを待っていられずに「もう早く帰ろよ!」と大人の事情も考えずに言ったものだ。
【八百屋さん】
本来、八百屋さんにライムはあまり売っていない。ライムはレモンに比べて値段も高く、BARでは必須アイテムだが、家庭ではレモンで代用が出来てしまう。
「ライムは、、置いてないですよね。」
思い切って声をかけてみたのは、もう8年も前の事だろうか。
バス停とお店の間にある、その八百屋さんは、毎日フルーツを買う私にとって絶好の立地だった。
「明日、仕入れておきますよ。」
初めて会った私に、なんの迷いもなく八百屋さんはそう答えてくれた。
次の日に行ってみると、本当にライムは仕入れられていた。
6〜7個入った袋を私に手渡しながら、「これちょっとキズのあるヤツだから、どうぞ。」と。
そんな親切な八百屋さんとの出会いだった。
基本的に私はスーパーでフルーツを買わない。それは、そんな八百屋さんへの敬意と、感謝の気持ちからだ。
ほとんど毎日、私は八百屋さんに通い、タイミングが合う時は、息子も連れて行った。たまに会う息子に八百屋さんは必ず何かお土産をくれる。
「お、今日はお父さんのお手伝いかい?偉いじゃないか。お駄賃にこれをあげるよ。」と。
「連休は、いつまでお休みですか?」
「暑いですね、、」
「最近、人があまりでてないねー。」
「雨だからかねー。」
「暗くなるのが早くなりましたね。」
「最近は、フルーツがみんな高くなって困っちゃうよ。」
そんな、八百屋さんとの「立ち話」。
ああ、私も「立ち話」をする様になったんだな。と、たまにしみじみと思う事がある。
情報交換でもない、議論でもない、これは「立ち話」と言う「挨拶」なのだ。
【挨拶】
バスの扉が開くと、小学校低学年らしい子供達が元気な声で「お願いします。」と言いながら乗り込んでくる。
降りる時も、「ありがとうございます。」と元気に言っていく。
バスを降りる時に、「挨拶」をして降りて行く大人を私は見た事がない。
子供には、しっかり「挨拶」しなさい。と言い、子供の頃よく、「挨拶」は大事だ。と言われて来た経験を持つ大人は、少なくないだろう。
いつから日常の「挨拶」がこんなに減ったのか。
知らない人には「挨拶」しないのか。
そんな疑問もあり、私は許される限り「挨拶」をする。
バスから降りる時も、「ありがとうございます。」と言う。少し大きな声で言わないと運転手さんには届かない。
その声が小さい時は、「あれ、なんか疲れてるのかな今日。」と思う。
お店のご来店時に私は必ず「こんばんは。」と言う。1人で扉を開けたその人は、「1人です。」と言う。
私の「こんばんは。」は、虚しく消えてゆく。
おしぼりを渡す際に、もう一度「こんばんは。」と言ってみる。
無言で受け取られる「おしぼり。」。
私の2度目の「こんばんは。」は、小さく萎んでゆく。
「こんばんは。」に「こんばんは。」というのは、恥ずかしいのか。
確かに、登校時に女子に「おはよう。」と言われると、「おう。」とか返していた気がする。
その時は、リアルに「おはよう。」に「おはよう。」と返すのが恥ずかしかった。
しかしそういう事を、少しずつ乗り越えて今があるはず。
「挨拶」は、人と人を繋ぐ、初めの一歩。
距離感をはかる、鍔迫り合い(つばぜりあい)の様なもの。やがてその距離を縮める切っ掛けとなるもの。
もし子供達に、「どうして大人は「挨拶」しないの?子供には「挨拶」しろっていつも言うのに。」と聞かれたら「立場なし」だ。