【蒼氓(そうぼう)】
【蒼氓(そうぼう)】
誰もいなくなった街角で、延々とカメラを回し続けていた。
シャッターの閉まったアメ横で。誰もいない浅草寺の仲見世商店街の店先で、ただ蛍光灯が灯る。
有楽町のガード下、見上げた電車に人はいない。
人がいない列車の室内灯が、いつもより照らす街に、人の影はできない。
消えた人達は、街だけを残して。それでもスクランブル交差点の信号は、決められた通りに色を青から黄色に、黄色から赤へと変えて行く。やがてまた青へ。
その風景に完全に歌が重なり合う。まるで、この状況の為に作られた曲の様に。
これは山下達郎氏の「蒼氓」という曲のリニューアルされたプロモーション映像の様子だ。
蒼氓とは民、移住民の意味。今、民をを無くした街は、目的を見失って存在を続ける。
コロナのせいで民の消えた街の様子に、ひたすらカメラを回し続けていた。もはやこれはプロモーションと言うより、歴史的資料としての画像だ。
突然のパンデミックに私達は、なす術もなく街を手放した。電気を消し忘れたまま、主人の消えた街は、ただ無意味なものを照らし続ける。
またそこに民が戻る日常を待ちながら。
【雨宿り】
私達は、静かに雨宿りをする様に、部屋に身を潜めて、それが止むのを待っていた。
喧騒と共に、忙しく周り続けていた、時計の針を1度止めて。
いつまでなのか、上手く行っているのか、悪くなっているのか、わからない時の流れに不安を感じていた。
でも人は未来を切り開く力を持ち、変化する事が出来た。慣れる事も出来た。新しい仕事のスタイルや、新しいものの流通の仕方が生まれた。
この雨宿りは、1つの昔のCMを思い出させる。1990年代頃まだあった煙草のCM。時代が変わり、今は見る事の無くなった煙草のCM。
雨を除ける軒下で、1本の煙草をふかす。どうしようもない雨の中、とりあえず燻らせる煙草の煙に、その当時何か、渋さと共に希望に似た感覚を得た。いつ止むか分からない雨の中、踏み出す瞬間を待っている様な。
駅のホームには幾つもの灰皿が置かれて、新幹線や飛行機の中ですら煙草の吸えたと言う時代。まるで、大人の嗜みの様に見えたそれは、今では考えられない。
今のマスク生活の様に、時の「当たり前」はあっという間に様変わりしてしまう。でも人は時と共に慣れて行き、その生活に適応して行く。その力と、その希望を、雨宿りしている最中の胸の中に宿しながら。
【街角で】
突然の出来事が、街角から日常の生活を奪って来た。それは、コロナのパンデミックや、地震のような自然災害、そして人の手によっても奪われて来た。
受け入れられない現実と、受け入れなければ行けない現状があって、今も涙が流れている。
音楽や書物や映画は、時を超えて愛や平和に繋がる未来への希望な存在を訴え続けた。数多の手法や目線を変えても、伝えようとして来た事は、大体同じ様な事だったと思う。
便利になり、進化して、多様化して、均一化して、機械化して、時短化する。
それでも、決して変わらない事。人と人との触れ合いは、幾千年も前から変わりはしない。
私達は社会を作り、所属する。しかし、その社会にいる事に、嫌気がさしたり、その為の息抜きをしたくなったり。
街角に人が出て、人と人が触れ合って、そして言葉が溢れ出す。それが本来あるべき姿。
真っ先に自粛のターゲットの1つとなった飲食業界も、少しずつ元の日常に戻りつつある様に感じられる。新しく会う様になった人もいるし、会わなくなってしまった人もいる。全く同じ日常には戻らないけど、雨宿りの様に1度立ち止まった街角に、また民が戻ってくる。
そして今宵も、雨の夜。
雨宿りのBARカウンター。
1杯のグラスを傾ける。
1本の煙草を燻らせる。
そんな日常の語らい。
あいにくの雨の中、傘越しに見上げた桜空。
ゆっくり、ゆっくりとでも、希望のある、次の日常を信じて。