【死神】

【死神】

アジャラカモクレン、テケレッツノパッ。

落語でも有名な「死神」。その死神に力を借りた男は、呪文を唱え、次々と病を治してゆく。

しかし「これは、やっちゃぁ、いけねえよ。」と言われた事をやってしまう。

再び現れた死神に、連れて行かれた場所には、寿命の蝋燭(ろうそく)が無数に並んでいた。約束を破った瞬間から、男の長かった蝋燭は、寿命で死にかかっていた人の短い蝋燭と入れ替わってしまっていた。

昔からある物語で出てくる「死神」は、ただ黙々とは仕事を、しないように思われる。もちろん「死神」を研究して来たわけではないので、さほど多くの例を知っている訳ではないが、その仕事に、一種の不真面目さ、遊び子心を感じてしまう。

「死神」がその気になったらあっという間だ。そういう時、「死神」は現れない。

この落語の「死神」も、はじめから男の命をとりに来たようには思えない。男にチャンスを与える。人間ならばどうしても、その掟を破ってしまいそうな装置を与え、それを破った事を後悔させようと、そしてその代償を死を持って償わせるような、そんな「死神」的、「遊び心」を感じてしまう。

二日酔いの朝の枕元に、私にも「死神」が迎えに来たのかと勘違いする事がある。昨夜の深酒を悔いる。「死神」に「装置」を仕掛けられたのか。

昨夜もまた、程々にしておけよと言われたのに、ついついと、

いや、これは、ほんの「でき心」か。

【想像力】

先日、ヒーローの猫が活躍する映画を映画館で見た。ネタバレはほぼさせないつもりですが、気になる方はここから次の【 】まで移動願います。

多くの童話は、想像力をかき立てる。時に象徴的であったり、残酷な表現があったりして、さらに多くは、全てを語りすぎずに、結末やその後のストーリーを読み手に想像させる。

映画に出て来たヒーローが、決して勝てない敵と対面した時、動物的感から恐怖を覚えて敵から逃げてしまう。そう、この敵こそが後に死神であると気づく。そしてその圧倒的な強さに、ヒーローは絶望する。

この圧倒的な強さこそが死神だ。死を司る世界から来たもの、そう思うだけでもう勝てる気がしない。もうこれから逃げつつける人生(ニャン生)しか無いのか、しかし死神はいつも背後から忍び寄る。

逃げても、逃げても、逃げても。

ニヤリと笑ながら、攻撃を仕掛け、はじき落とした武器を拾い投げ返し、戦えという、楽しみは長い方がいいと、最後の一撃を打ってこないで、ヒーローが怯えて逃げ惑う姿を嘲笑う。

ここで想像力を膨らませる。落語の死神もそうだった、死神は最後の一撃を直接下さないのでは無いか?と。対象を自滅に追い込むのが死神なのか?ではこの結末はどうなるのか?

では何故死神は現れたのか、死神は何を伝えようとしているのか。

紆余曲折の後に、死神は悔しそうな表情で、お前を殺しても、もう面白くねえ、、と立ち去る。

【概念としての】

いわゆる神様という概念が、生命や幸福を司る神なら、死神は死を司る神としてその対極にいる。

死という宿命から逃れる事が出来ない人間の恐怖心から生まれた概念としての神。この神は理論的に倒すことは出来ない。それは、全ての生き物が死という宿命から逃れられない事と同義なのだ。

例外として複数の死神がいた場合は、倒す事は出来るかも知れないが、もし死神を全滅させてしまったら、理論上、生き物は死ななくなってしまうので、物語が成り立たなくなってしまう。

恐らく死という恐怖から生まれた死神と言う概念。しかし同時に死とは、ごく自然な現象でもある。もちろん、そんな死の悲しみからも逃れる事は出来ないが、死神が伝えにくること、それは今ある人生を大切に生きろという事なのでは無いだろうか。

それが出来ていない時、死神は現れる。そして、そんなに粗末に命を扱うなら、俺がその命、持っていってしまうぞと、忍び寄る。

勿論これは、物語の話。だから死神は必ず、主人公の前に現れる。人はその主人公に感情を移入し、その恐怖に、自分を重ねる。

しかし、この日常で私達は映画のヒーローの様には生きられない。そんな事はしなくて良い。毎日を楽しむ。楽しめない日もある。

映画に出て来た、小さなワンコロが、この旅で初めて友達が出来たから僕は幸せだよと言った。そんなワンコロには死神は迎えに来れないのだろう。

Previous
Previous

【スーパースター】

Next
Next

【眠りと3つの帽子】